創立30周年に寄せて
=他団体の皆様より=

これを機に更なる発展を!!

厚木市サッカー協会少年委員会委員長代行  .
荻野サッカー少年団 監督 荒川 治 
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 BJ創立30周年おめでとうございます。
 この30年間チームを支えてこられた指導者・役員及び保護者の方々の苦労と努力に敬意を表します。

 30年というと、一世代が巡り卒団した選手たちが親となって戻ってくるぐらいの長い年月です。荻野サッカー少年団も来年30周年を迎えますが、本団の前団長である成田大信先生が厚木小に勤務していた時に、若い男の先生(その先生はもう県外の小学校へ転勤されたそうです)と共にBJを立ち上げたと話を聞いたことがあります。成田先生も創団当時にBJのみんなでつくったというBJ帽子をかぶっていたのを見た覚えがあります。

 自分が少年サッカーの指導を始めた28年前頃は、BJのコーチは東海大学の学生が携わっており、保護者の組織がそれをサポートしたり少年委員として少年委員会に出席していました。荻野とは組織やチーム経営のしかたが違うなぁと思いました。が、最近では保護者・OB・地域が一体となって運営する体制は、BJも荻野も同じです。

 ここ15年ぐらい、厚木市の少年委員会は、松枝自治会館で開催されており、BJの少年委員の方が手配してくれているおかげで開催できています。また、会計や他の運営面も担当していただき、大変感謝しております。

 過去の苦しかった時代を、地道な活動で乗り切った力が今日のBJの基盤になっていると思います。
 これを機に、今後とも魅力あるチームを築き、さらに未来に向かって発展されることを期待しています。


BJ創設30周年を祝う

厚木市サッカー協会少年委員会副委員長  .
ハリマオサッカークラブ  .
FC厚木ジュニアユース  .
今井徹
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 BJ創設30周年おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。
 BJと聞いてイメージするのは、運営がその都度の子供たちのご父兄を中心に運営されていること、サッカーの技術中心の指導ではなく、楽しさをベースに子供たちの仲間作りを大切にし、のんびりした雰囲気を大切にしているチームのように感じます。

 現在のサッカーは、お金になるメジャープロスポーツなり、そのことが少年サッカーにも大きく影響しています。少年サッカーでもプロ指導者によるチームは現在も増えており、塾的なサッカーチームも普通になってきました。

 しかし、地域に根ざし、子供の遊び場を提供したり、親子の関係を大切にした昔のサッカークラブは少なくなり、「サッカーを通じて、親子で共に笑い、共に泣く、それを支えるサッカー好きのおっちゃんたちのグループ」のようなサッカーチームや場面を見る機会が減ってきたことも、現在が、殺伐とした時代になってしまった要因ではないかと思っています。

 昔からそして今でも、自分たちのペースを守って、「サッカーは子供たちのためにあり、子供たちのものである」を実践しているのが、BJでないかと思っています。現在サッカーが失ってきてしまった大切なものを失わないBJを尊敬し、今後の活躍を期待しています。
 30周年おめでとうございます。


創立30周年を祝して

南毛利サッカー少年団 代表・監督 福田博明  .

 ブラックジャガーズ少年サッカークラブの創立30周年おめでとうございます。
 30周年の節目を迎えられ、同時に、記念誌を発行されますことを、心からお祝いとお慶びを申し上げます。

 30年前に、スポーツ活動を通じて、青少年の健全育成と体力・競技力の向上を目指し、結成されました貴クラブは、少年からシニアまで活動される大きなスポーツ団体へと発展されており、優れた選手を数多く輩出されております。この実績は、多くの方々から賞賛されているところであます。

 これは、今までに貴クラブの運営に携わってこられた数多くの指導者等の諸先輩方の熱意があったからこそであり、敬意を表します。

 BJとは、創立間もないころから近隣地域のチーム同士として交流させて戴いており、感謝しております。今後とも互いに切磋琢磨して、地域およびサッカー界全体の発展につながるように、活動できることを願っております。

 終わりに、この輝かしい30周年を契機とされ、BJがますます発展されることを祈念してお祝いの言葉とさせていただきます。


BJ創立30周年おめでとうございます

愛川サッカークラブ監督  猪熊教夫  .


 BJ創立30周年おめでとうございます。
BJさんとは、交流試合、招待試合、湯河原合宿、富士山カップと行事がよく重なるので、愛川SCとして、とても身近に感じています。中津川で行う夏のバーベキューにも来ていただき、交流を深めました。(今年もよろしく!!)

 今年は、更に2年のリーグ戦に連合チームで出させていただき、お世話になりました。

 BJさんに見習うべきところは、監督(指導者)が2年おきくらいに代わるのに組織がきちんとしていることです。トップが代わることによりチーム内に新しい風がふき、新たなチーム作りが始まる。当事者は大変な思いをすると思いますが、見ている限りでは、引き継ぎの混乱もないようなので、理想のチームかなと思っています。

 愛川SCも昨年30周年を迎えたわけですが、BJ創立30周年を機にまた更に深い交流をしていただけると嬉しいです。

 今後とも、長いおつきあいをよろしくお願い致します。



30周年おめでとうございます

林SC 仁村明夫  .

 私とBJとの付き合いは林SCが少年委員会に入った時からですが、初めて接した時の印象は子供達が本当にサッカーを楽しんでいるチームだなと思いました。サッカーをする喜びや夢を持たせてあげるのが少年期のあるべき姿だと私は思っています。まさにBJはそれにふさわしいチームだと思います。

 卒業後、活躍している選手が多いように思われます。これは少年期のどのようなサッカーをしてきたかにあるかです。これからも将来楽しみな選手育成をして頂けるよう頑張って下さい。

 又、今回このようなイベントを企画した大津監督以下BJの方々、誠にご苦労さまです。今後もBJの発展を期待しています。


ハートが熱く強い選手の育成名人のBJさんへ

鳶尾JrSC  磯村 貴  .


 BJさん30周年おめでとうございます。うちは今年チームの成人式で20周年を迎えます。

 私が、BJさんとの名勝負で思い出すのは、練習量の少ない時代でも何故か抜群に強かったうちの10期生が2,3年生の時のゲーム。当時のGPさん、林さん、BJさんそして、うちと4強が、四つ巴となりゲームし、鳶尾は育ててもらいました。(後にこの学年が6年生の時、冬の県大会でGPさんは県の頂点にたつこととなります。)

 このとき私はただの親父サポーターで夢中になって鳶尾Jrについてまわりました。少年委員会の存在も知らず、この4強でゲームをしようと思いBJさんの大津監督、GPさんの小俣監督、そして林さんの小宅コーチの自宅を訪ね、練習試合をうちとやって下さいと監督でもないただの親父のお願いを3人の指導者の方が快く受け入れてくれて「やったー」と心の中で叫びました。この時覚えている選手が1人、大きな体の子で確か奥山って名前だと思います。

 BJさんには個性的な選手が数多くいて、双子の選手、小松兄弟、のちに小松弟(三男)は鳶尾に家族で引越して来てうちに入部してくれました。

 次に思い出すBJさんとの名勝負はうちの15期生とのゲーム。市内から県央へと上るつもりが何故か手も足も出ずに負けてしまいました。当時、田中、中島、鈴木、のち一人ちっちゃくて素早い選手(名前忘れてすいません)がいました。

 BJさんとのゲームで感じたことはハートの熱い、そして強い選手を育成していると感じ、BJさんの指導者の素晴らしさを感じました。

 今後とも末永く鳶尾Jrとお付き合いのほどよろしくお願いいたします。


BJ創立30周年を祝して

毛利台フットボールクラブ  .
代表 増田誉志夫
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 ブッラックジャガーズ少年サッカークラブが創立30周年を迎えられたことを心からお祝い申し上げますと同時にご尽力をされた関係者の方々に敬意を表します。

 ひとえに30年と申し上げても、大変なご苦労や思い出がたくさんあることと思います。そうした中、チームから巣立たれた多くの選手の方々はきっと、日本の将来を担うことでしょう。

 これからも益々発展されますことを祈念致します。


創立30周年に寄せて


FCwillgrove 永里正彦  .

 創立30周年おめでとうございます。
 現在に至るまで様々な熱意のある方々のバトンタッチの連続で創立から30年を迎えられたことは関係者の御尽力の賜物だと思います。

 継続は力なりと言われますが、力がないと継続できないのも事実です。その力を束ねておられる大津代表とは少年委員会が縁でお話する機会があり、BJ出身の女子を含めた多くの選手、指導者、保護者の方々と接することができたことは私自身が指導者として多くのことを学ぶ価値のある経験として心に刻まれています。そして、今それが活きていることに深く感謝しています。

 少子化等による部員数減少で活動を余儀なくされるチームもある中、子供に様々な経験をさせる活動、工夫を凝らした運営をされている素晴らしいチームであり、中学生以降の伸びシロが多い選手育成には目を見張るものがあります。BJと共に歩んでおられる方々の益々のご活躍とご発展を心よりお祈りいたします。



創立30周年に寄せて
=ご父兄等の皆様より=

BJ後援会長 神村 誠   .


 2008年北京五輪の年に、BJに関係する皆様と共に、ブラックジャガーズ創立30周年をここに迎えることができ、大変喜ばしく、関係者の皆様に心より日頃のご支援とご協力に感謝を申し上げます。

 我BJの創立は、1978年(昭和53年)厚木小学校の渡辺先生・ご父兄の坂本一正氏を中心に、地域の子供達の健全育成を目的に創設されたと伝えられております。その原点は、今も変わらず受け継がれ、地域で親と子が共に育つ「共生の場」とし、「明るく」「楽しく」「元気で」「健康が第一」をモットーに、年間を通して「親子交流会」「BJオリンピック」「BJサッカーまつり」等が開催され、諸行事の中に自然と家族ぐるみで参加でき、子供達の成長を温かく見守り、支えるクラブとなっております。

 我家族がBJにお世話になり始めたのは、長男忠貴が一年生、次男秀樹が幼稚園生の1987年(昭和63年)からであり、以来21年目になろうとしておりますが、小生が父親として参加しだしたのは、1992年からであり、96年〜現在までは名前だけでありますが後援会長を拝命しております。

 その間の思い出と言えば、
 真夏に開催された清水カップ全国少年草サッカー大会へ、92年第6回〜94年第8回大会へ、第15期生・第16期生・第17期生と共に戦った事です。

 又、94年の東海カップ、当時コーチの派遣でお世話になっておりました東海大学の嬬恋高原にありました東海大高原研修センターで開催され、夏合宿兼用で参加しましたが、その時大津さんが捉えた高原での子供達のハツラツとし、目が光り輝く顔・顔のスナップ写真の一枚一枚が今でも目に焼き付いています。「子供の顔ってなんてすばらしいものであると!!」

 その時々の記念文集の副題には、「心のきずな」「成長した子供たち」「熱き黒豹たち」とその時代・時代にBJの親と子が、サッカーというスポーツを通じ、体験した貴重な親子の心の内や願い、将来の希望、試合に負けた悔し涙、面と向かってはなかなか言えない子供達からの感謝の言葉が綴られており、親・子共に成長してきた姿が色濃く短い言葉に込められております。

 今またその時の情景が、当時とは違う気持ちで、なつかしく心穏やかによみがえって映るのは、BJからの、BJにかかわったことへの大きなプレゼントではないかと思っています。

 最後になりましたが、
この30年間、子供達と共に歩んでこられたクラブ関係者の皆様、厚木市内外のクラブチーム関係者の皆様方の御支援・御協力をその扇の要のところで受け止め、まとめてきました熊野成一氏を始めとする監督の皆様、特に1996年(平成8年)より監督を引き受けられている大津保男氏のただただ子供達への慈愛の精神は、厚木市青少年のサッカークラブ、ブラックジャガーズの心の絆であり、地域の子供の為、地域の御父兄と共に、この姿は永遠に続くことと思います。

 皆様方の力強い御支援・御協力をこれからも宜しくお願い申し上げると共に皆様方の御多幸・御発展をご祈願致します。

拝筆
2008年2月


後援会副会長 坪沼一等   .


感謝と未来のために                 

 ブラックジャガーズ30周年記念おめでとうございます。
 素晴らしいの一言です。ブラックジャガーズ(BJ)を創部された方は、ここまで続いて運営されるとは思っていなかったのではと思います。
 ここまでの道のりを考えますと幾多の試練を踏み越えて活動・運営されてきた部員のご両親(殊更お母さんたち)の努力と監督、コーチの皆様の並々ならぬ努力と熱意の賜物だと心底思います。子供のためとはいうものの地道な活動に敬意を表します。

 私の子供2人(17期生、18期生)もBJにお世話になりましたが、今振り返って思う事は、小学生の多感で無垢な心を持った思春期にサッカーというスポーツに熱中させてやる機会を与え、且つBJというサッカークラブに入部させてもらった事は、彼らのその後の成長を見ると大変意義のあったことだと思っています。

 17期生の子供は、2チーム作れるほどの多人数で無論子供たちも熱中していましたが、親の熱中(スーパーヒート)振りは筆舌し難いものだった記憶があります。
方や、18期生の子は入部時代には部員数2名でどうなることやらと思っていましたが、徐々に部員数も増え1チーム編成が出来るまでにそれ程の時間を要しなかったと思います。(これもJリーグ創設の機運があったためなのかなぁと思います)

 それでも継続的な部員確保と増員にお母さんたちの勧誘ビラ配りなど大変な思いもされていました。子供たちと接する機会は圧倒的に母親が多く、全ての運営はお母さんが担っていたと言っても過言ではありませんでした。父親を何とか担ぎ出すために現在も継続して行なわれている“BJオリンピック”“BJサッカーまつり”や“夏合宿”に参加を呼びかけて結構盛り上がった事が思い出されます。

 今ある父親チーム(シニアチーム)、母親チーム(マミーズ)もその流れの中で誕生したものでした。今でも盛んに活動している父親のシニアチームには、“もうそろそろ。。。”と言われながらも最年長者として在籍しています。

 体を動かしお互いにコミュニケーションを取る事のできるサッカーの楽しさを小学生時代に体験できる事は、後々の成長に非常に良い事と思います。
10数年前までは、東海大生にコーチを委託して良き兄貴分として指導を仰いでいました。今ではサッカー経験のある父親がその役割を担い、その方たちの指導で未経験な父親も参加されていると聞き素晴らしいことだと感じました。

 卒部式の度に感じるのですが、子供たちの感謝の一言一句を聞くと親が子供を思う以上に子供は親のことを思っているんだなぁと感じます。また、このシーンを見るたびにBJの在り方・方針に間違いは無いと心底思い、指導されている監督・コーチの皆様には心より感謝いたします。
今後とも宜しくお願いいたします。


勝 晋一      .


BJの思い出

 当時小学4年生だった長男が、突然BJに入りたいと言い出し、反対する母親に「好きにさせてやれば」と一言いってしまったのがキッカケで、次男はいつの間にか幼稚園の時からBJの応援に借り出されていて、自分は訳も分からず副会長となり、男性で初?の総括、2期続けて会長職を承り、忙しく楽しい?日々を送っていた頃を懐かしく思い出します。

 5年前一身上の都合で転職して以来、少年サッカーの世界から遠ざかってしまいましたが、建築関係の仕事に携わっていると、いかに少年サッカーの関係者がまわりに多い事か!

 「サッカーの話をしないんだったら、今後一切仕事は出さない」と脅される事もしばしば、そんなわけでサッカーは身を助けるというじょうきょうにいまも陥っている次第です。

 その為、BJと神奈川県サッカー協会のサイトは、暇があればのぞきにいってます。今年は中央大会には厚木から低学年に「GP」しか進んでおらず、高学年の方は厚木のチームはいないとか、感慨にひたりつつ昔を懐かしんでいます。

 今年BJが30周年の節目を迎えるにあたり、今年4月に社会人となる20期生の長男と24期生の次男と一緒にお祝いを申し上げると共に、BJの今後ますますのご発展をご祈念いたしております。


鈴木修司      .


【26期生のその後】

 BJ設立30周年、おめでとうございます。26期を担当していました鈴木です。
 加藤会長からBJ時代の思い出や感想を書いてくださいとの御依頼がありましたので、BJ時代・卒団後の26期を簡単にまとめました。

 26期は当初から人数も少なく、常に上級生、下級生と共に行動していました。一学年ではチームが成り立たなかったのです。11人揃ったのは5年生の時だったかな?6年生の時は5年生・4年生の子供達を引連れ試合に参加していました。4年生の子供達にとっては2学年上の選手と試合することが、とても辛く恐怖心を抱いたことは間違いありません。今も深く反省しております。

 26期の子供達は1年生の頃から一生懸命サッカーに取り組んでいました、親達がやらせるのではなく、自分から進んで練習をして、BJの練習日以外でも空いているグランドを探しては練習し、サッカーと言うスポーツに魅力を感じていた様です。暗くなるまで家に帰って来ないのが、親にとっては心配だったんですが・・・・・・。

 BJで6年間しっかりとサッカーの基礎を学んだ26期生は中学生になり9名がFC厚木に入り、更に厳しいサッカーに取り組んでいきました。平日は夕方から練習、家に帰る時間は10時過ぎ、土日も練習や試合とサッカー漬けの2年半でした。勉強との両立も大変だったと思います。でも、兄貴みたいなOBコーチを慕って一生懸命練習していました。そんな彼等の試合を見るのが楽しみで、厚木市内や市外、時には県外まで応援に行ったりして、結構ガソリン代や高速代を使っていましたが、彼等がどれくらい成長したか見たかったのです。

 厳しかったジュニアユース時代を経て、サッカーを続けている26期生達は高校サッカーに挑戦しています。私立の強豪校へ進んだ子や県立の強豪校へ進んだ子は、県大会優勝、全国大会出場に向けて厳しい練習に励んでいます。

 今年、26期生も2年生になり厳しい競争の中でレギュラーポジションを獲得する子も出てくるのかなと思いつつ、私は彼等の活躍を楽しみにしています。


石山智洋      .


BJというサッカーコミュニティー

 BJ創立30周年、本当におめでとうございます。
 私がBJの活動に係わった4年半の時間の中で、100人位の子供達がBJ選手として日々練習、試合と活動していました。そんな子供達が時折見せるやさしさやたくましさに小さな成長を垣間見て、本当にうれしく感じたことが昨日のように思い出されます。

 学校の先生やスポーツジムのインストラクター等でなくては、味わえないであろう、こうした喜びを分け与えてくれたBJに感謝しております。

 ちょうど「平成」という年号が20年を刻んだ現在の日本経済はバブル崩壊からの負の遺産を引きずったまま、若い世代が希望を持てない社会だと言われています。

 BJというのは、そんな日本で暮らし、これから活躍すべき若い世代が困難な状況にも負けない「気持ち」や仲間と協力して問題を克服する「チームワーク」、そして何より一生の宝物である「健康」を育むのに我々現役(!)父母が直接関わることができる本当に貴重な場であり、その重要性はこの先も全く変わることがありません。

 子供の親の立場で考えれば、その貴重な場で、自分が子供に対し伝えて行くべきものは…、そして、その貴重な場で、自分が担うべき役割は…

 一人一人が30周年という節目に、あらためて問う事も必要でしょう。

 父母、コーチ、OB等それぞれの「熱い思い」、そして「真っ白な」子供達。BJという「人間の集まり」が、その大切さをさらに増し、耀きつづけていくことを願っています。


コーチ 小林正樹
     .


プラックジャガーズ30周年おめでとうございます。

 大津監督をはじめ、今までこのチームを支えてきたスタッフ、選手、保護者の方々の協力があって、この日を迎えることができたのだと思います。

 私は、24期の2年生・25期の1年生の時に、コーチとして一緒に時間を過ごさせていただきました。
 私自身、選手だった大学時代に、BJの指導者として過ごした1年間、自分のサッカーヘの思いを子供たちに伝えていた日々だったように思います。
 サッカーを、子供たちに教えることの難しさと、小学生への接し方、保護者の方々との距離・・・何もかもが初めてで、当時、失礼なことをしていたのかもしれません。
あれから10年…今、同じ状況でコーチをやったら、もっと優しかったかもしれません。

 私との最後のお別れの日、みんなが笑顔で送リだしてくれたことを昨日のように思い出します。今では、BJで皆さんと出会えたことを大切な財産だと思っています。
私にとってBJでの1年間は、“人生”という長い道のり中で、ほんの少しの時間でしたが、24期・25期の選手や、保護者の方々との思い出・‥あの時、BJで出会った人との思い出は、一生忘れることはないと思います。
 本当にありがとうございました!

 先日、BJのホームページを初めて訪問させていただきました。
とっても楽しい記事でした!また、その場に私が居たことに嬉しさもありました。
そのホームページが、もっとたくさんの人の足跡が刻まれていくことを、今後も期待しています。


創立30周年に寄せて
=OBの皆様より=

三木秀一(11期生)     .


「BJの思い出」

 小学校を卒業してからほぼ20年、BJとの関わりはすっかり無くなっていたが、「BJ創立30周年記念」を機に、あの頃を思い出すことになった。

 20年も前のことながら、はっきりと覚えていることが2つある。1つは、とにかく弱かったこと。
もう1つは、試合で負けたときの愛のムチである。

 前者については、サッカーの点差とは思えないほどの大敗が少なくなかったことを覚えている。
点差が一桁後半ならまだ良いほうで、二桁差も珍しくなかった。BJには1年生から6年生まで6年間在籍したが、どの年次においても似たような戦績だった。

 後者は、試合に負けると出場メンバーが体育館裏などに呼び出され、当時の大学生コーチから愛のムチを浴びせられた、ということだ。特に印象的なのは4年生の1年間である。
当時、6年生の試合に4年生の身で出場していた自分へのムチは軽いものだったが、当時の6年生(特にエースストライカー)に対しては非常に厳しかった。

 締めはお決まりのように全員でグランド数十周である。このような光景がほぼ毎試合後に繰り返されていた。

 大敗そして愛のムチにも関わらず、よく投げ出さずに毎回試合に臨んだものだが、負け試合だろうと一生懸命だったし、愛のムチを受けようとも歯を食い縛って耐えていた。
苦楽、特に苦しい・厳しい時を共に過ごした仲間が常にいたからこそ心が折れなかったのだろう。

 人は通常、楽しかったことは記憶の片隅に追いやり、辛かったことばかりを覚えているもので、自分もそれに当てはまる。
 しかしながら、その辛かったことが今となってはもっとも大きな良き思い出となり、また成長の糧にもなったことは間違いない。

 30歳を過ぎた今でも毎週のようにボールを蹴り、体力・筋力は衰えどもまだまだ上手くなれると信じている典型的なサッカーバカの礎を築いたのは、辛く厳しい中にもサッカーの楽しさを教えてくれたBJである。ありがとう。

 最後に、創立30周年記念という一大イベントを担われている神村実行委員長、大津総監督を始め、現役の運営メンバーの方々のご尽力に敬意を表するとともに、この30年間、BJに関わったすべての方々にも感謝の意をお伝えしたい。

 BJの今後の益々の発展を心からお祈り申し上げます。


田口泰幸(21期生)     .


今思う自分とBJ

 自分はとても長い間、BJとかかわりを持ってきました。小学生の時は、チームの一員として、いろいろ大切な事やサッカーの楽しさなどとても多くの事を学びました。
高校でけがをして、部活を辞めた時にも、ボールを蹴る楽しさをもう一度確認させてくれたのはBJでのコーチという経験でした。

 コーチという立場でBJとかかわるようになってからは、子供とふれあうのがとても楽しい事をはじめ、人に物事を教える事の難しさなど、また多くの事を学ぶ事ができました。そういう面で自分はBJにいろいろな事を学んで成長してきたと、今、過去を振り返るとそう思います。

 自分は、これから社会に出て、どんな大人になるかは、自分でも想像もつかないですが、BJで得たり、学んだ事を忘れないようにしていきたいと思います。これから、BJとはどんな関係になっていくかはわかりませんが、BJがもっと大きく、長く続く事を願っています。



川田優一郎(28期生)     .


仲間との成長

 僕が5年生の時は6年生が1人で5年生も3人しかいなくて4年生の力を借りて試合をやっていました。しかし、6年生になって学校の友達に「サッカーやらない?」と誘ったら5年生の時は3人しかいなかったが6年生の春には11人になりました。それは凄く嬉しかったけど、その中にサッカー経験者が少なかったので最初はBJの5年生と練習試合をしても全然勝てなくて、試合にも勝てませんでしたが、夏休みに一生懸命みんなで練習をしてだんだんうまくなっていきました。

 9月になって試合をすると勝てるようになってきました。それは、みんなで努力をして練習をしたからだと思います。3学期に入ってますますチームが強くなりました。フットサル大会では予選リーグで1位になりました。

 卒部の日が近づいてきました。僕はもう少し仲間とサッカーをしていたいと思いました。卒部の日に仲間との最後の試合をしました。1試合目は負けてしまいました。だけど次の試合は絶対勝とうと、気合を入れていきました。しかし1対2で負けてしまいました。最後の試合を勝てなくてすごく悔しかったです。だけどこの1年でみんな凄く成長しました。
 それが一番嬉しかったです。



山口大貴(29期生)     .


いままでそしてこれから

 僕がBJに入部するきっかけになったのは、小学校1年生の時、田中凱庸くんに誘われた事でした。ですが2年生になると同時に田中くんがアメリカに引っ越してしまいました。その後、2007年、8〜9月に帰ってきて、今は、睦合東中学校のサッカー部で一緒にサッカーをしています。そのサッカー部は、厚愛新人戦3位になりました。

 今考えるとBJでの活動は、思い出でもあり貴重な経験でもありました。6年間BJで活動して1番印象に残っていることは、5年生、6年生に行った「富士山ジュニアカップサッカー大会」です。5年生のときあまりいい結果ではありませんでした。その翌年、僕たちは6年生になりBJ最後の年になって、1つでも多くトロフィーや賞状を持って帰りたいと思っていました。しかし結果は、3位パート4位・・・。あまりいい結果では、ありませんでした。ですが去年よりもいい結果だったので良かったです。

 このときの大会は、色々なハプニングがありました。中でも2日目の大雨が印象に残っています。その日は朝から晴れていたのにもかかわらず、急に空が怪しくなり大雨が降ってきました、さらに雷までもが鳴り始めました。体育館に移動した僕たちは、本部の報告を少し遊びながらまっていました。このときグラウンドは、大きな水溜り、明日はどうなるのかと思っていました。ですが次の日のグラウンドは、何もなかったのように水溜り1つありませんでした。このときの大雨は、僕がBJにいた中では、1番のハプニングでした。他には試合会場を間違えるなどのことがありました。

 そのほかにも6年間いろいろな事がありましたが監督やコーチ、保護者の方々の支えがあって僕は卒部する事ができました。本当にありがとうございました。


石山貴之(29期生)     .


<BJにしかないもの>

 30周年おめでとうございます。僕はBJ29期生、できれば30周年をBJ内で祝いたいと思いましたが悲しくも,1年違いで中1になりました。少し残念です。ですのでOBと言う立場からお祝いさせていただきます。

 僕の所属していた29期はどちらかと言うと弱く、大会も2回戦や3回戦どまりでした。でもその分、1勝1勝がかけがえの無いものとなりました。その象徴ともいっていいのが「宴会」です。他のチームの人に聞いたら「どんだけ〜」と言われそうです…実際言われましたが。

 まず僕が「宴会」とか「祝勝会」という言葉をはじめて聞いたといってもおかしくない試合がありました。僕達29期生が4年生の時、6年生は加藤君一人と、5年生が3人という小人数だったので、4年生が助っ人について行くのがほとんどでした。さすがにフィジカル的にも弱く、当たり負けやスピードでもかないません。でもある時北山コーチが「カツ」をいれて、僕達4年生はとても気合いが入り、気持ちでも負けない試合がありました。その結果が“6年生公式戦初勝利!”……というわけで、僕はこの時初めて「祝勝会」というものに行く事が出来たのです。

 その時は456年生の家族はもちろん、監督、コーチ、大集合!だったので、とても楽しかったです。その時加藤コーチに、ペレの努力の話や「炭酸は飲むな!」などいろいろ聞き、僕は今でもよく覚えています。

 次は6年生の夏、BJ最大の思い出とも言える「富士山カップ」です。2泊3日で山梨へ…。到着してすぐコーチから「飯食っていいよ」の一言。みんなでワイワイ騒ぎながら食べていましたが、食べ終わってもコーチは何も言いません。開会式に備えてもう並んでいるチームや、走ってアップしているチームがいるのに、僕達は何もやっていません。少し不安でしたが、後でわかりました。卒業アルバムの「富士山カップの思い出」に監督が「開会式の前にずっと立って並んでいると倒れてしまうケースがあるので、ギリギリまでリラックス…」と書いてあったのです。やっぱり、監督はすごい!30年の知識と経験が…。

 開会式が終わり、1日目は0−5、3−0、1−4と1勝はしたものの、残念ながら3位パートとなりました。2日目の1試合目、1対1でむかえたPKは拓人の好セーブで3−0の圧勝でした。ところが、突然の豪雨でその1試合だけで中止となりました。3日目は無事晴れて、むかえた2回戦目も1−1のPKを5−4で無事勝利!そして3位パート準決勝前半を0−0で終え、「PKなら勝てるかも…」と思っていた矢先にゴールを決められてしまいました。

 そしてタイムアップ…BJのテントにもどり、みんな泣いたりうつむいたり。僕もうつむきましたが、負けてくやしくてではありませんでした。こんな時に泣いたりくやしがったり、という感情が出てこない…それがくやしくてうつむいていました。その前のPKでは、決めた瞬間から訳もわからず涙がとまらなかったのに。その後の3位決定戦では、落ち込んだムードを引きずったのか、緊張の糸が途切れたのか、完敗でした。

 みんなめちゃくちゃ疲れたらしく、僕も帰りの車で暴睡。気が付いたら厚小でした。到着して(あくまで僕が聞いた)北山コーチの第一声…「一條行こう」。という訳で「祝勝会」監督いわく「報告会、激励会」が行われました。そこでみんなが盛りあがる中、コーチ達が酔っているのかいないのか(いや、酔っていなくちゃ、あんなに顔を赤くしたり、あんな無茶を言わないだろう)「6年生!カツラをかぶって今回の感想を言え〜」最初はみんないやがったけれど1人2人とだんだん言っていくようになって…ぼくはPK戦最後の5人目の時の気持ちを話しました。そんなこんなでその宴会は無事?終了。

 3回目の「宴会」は他のチームどころか他の学年からも非難されそうです。「たかが、4チーム中1位になったくらいで…」と。でも29期生とその家族にとって、大きかろうと小さかろうと「優勝」という2文字がつけば、それだけで「一條へGO!」なのです。

 その試合は4チーム総当りのBJカップ。1試合目の相手、愛川は10人しかいないというだけあって、どれほど点をとったか忘れるほどの大差で勝ちました。僕もとりあえず点を取って良いすべりだし…。2試合目は先制点を決められても、拳伍が(BJで初めてかもといわんばかりの)きれいなヘディングシュートを決め、なんとか引き分け。3試合目これに勝てば「優勝」という試合前半、またも先制されましたが、拓人のミドルシュートが決まり、1対1に…。引き分けでは「優勝」が無かったのであと1点欲しい…。後半の終盤に勇也が1人2人3人と抜いていき、キーパーの横をボールがすりぬけ、ゴールネットを揺らした時は、めちゃくちゃうれしかったです。そして3回のホイッスル。その瞬間、みんな押さえていた感情を一気に放出…そして「一條へGO!」この時は監督、コーチと6年生しかいませんでしたが盛りあがりました。そしてお約束の「一人一人の感想」。

 最後の「宴会」は絶対忘れない、というか、忘れさせまいと思いました。BJ最後の試合「卒部試合」。僕達最後の相手は、北の台。最初に1点取られ、なんとかとりかえしてこのまま行けという時、また1点取られて結局1−2で負けてしまいました。この時もみんなが泣いていても僕は泣けませんでした。今でもなぜか分かりません。でも監督やコーチの言葉は忘れません。そして最後は「卒・祝勝会」というように今度は一條ではなく違う店へGO!。この時はみんなアルバムを見ながら笑い合い、あんな事こんな事を思い出しながら…。あの夜は忘れられません。

 他の学年や他のチームはこんなに1試合1試合を大げさにしないかもしれません。もしかしたら、勝つのが当たり前、優勝カップも何回も持って帰ってくる学年もいるのかもしれません。でも、忘れないでください。1試合1試合、1つ1つの事は必ず自分の中で何かを変えるためにあるはずです。

 中学生になって実感しました。今この文章を書きながら、くやしがったりうれしがったりしています。中学生になって、1つ1つの事に大いに喜んだりくやしがったりすることが、確実に少なくなっています。高校、大学、社会人となるともっと難しくなるだろうと思うと「もっともっと思い出を作っておけば……」これは中学生になって初めて気づいた事でした。だから、いっぱい喜んでください。いっぱいくやしがってください。絶対に忘れないくらい…。


宮崎康太(29期生)     .
               

今の自分

 僕は、2年生の秋にBJに入団しました。入団したのは、自分の希望です。BJは、少し弱かったけど仲間と団結してBJの試合をしていました。僕は、楽しくサッカーをするBJが大好きでした。

 しかし、5年生の夏、僕は野球に心を引かれ、野球を始めました。サッカーの練習ではなくいつも、いつも野球の練習に行くようになってしまいました。
ある日、サッカーを辞めようと悩んだ時、大津監督と北山コーチに相談しました。そこで、大津監督と北山コーチは辞めて欲しくないと言ってくれました。僕は、とても嬉しかったです。

 最終的にサッカーと野球の両立をする事に決まりました。そして、なんとか6年生まで両立出来ました。
 しかし、中学でサッカーを取るか、野球を取るかとても、とても悩みました。でも、やっぱり自分はサッカーの方が向いていると思いサッカーを選びました。今では、サッカーを選んで本当に良かったと思います。

 ここに、今、自分が居るのは、大津監督・コーチの方々・両親のおかげだと思います。
本当に本当にありがとうございました。そして、これからも頑張っていくので宜しくお願いします。


その他の皆さんからのメッセージ


BJにいて良かったコト
佐多勇介(26期生)


 僕はBJを卒団したあとで年がたつ度にBJにいて良かったと思います。良かったと思うことは多々ありますが一番大きなのは、サッカーという趣味・特技が持てたコトだと思います。僕の人生の中にはサッカーという大きなブロックを中心にBJがあったり友達関係があったりします。そして今考えるとサッカーをやっていなかった自分は全然想像できません。おかげさまで今でもサッカーを高校での部活動ですが続けています。そんな時でもBJにいたこと、その中でも26期生であったことは胸を張って言えます。いろんな意味でBJには感謝したいと思う限りです。



BJでの思い出
高木淳史(28期生)


 ぼくは5年生のときにBJに入りました。BJに入ったらいろいろなことを学んだり、友達も増えたりしたり、BJに入ってとてもよかったと感じました。ぼくは今でもサッカーをしています。BJのコーチに言われたことを思い出し、これからもサッカーを続けていくようにがんばります


BJカップでの思い出
三岡和樹(29期生)


 僕の一番の思い出は、「BJカップ」です。試合前の、ウォーミングアップの時、北山コーチは怒り、「グラウンド走って来いっ」と言い僕らを、走らせました。今だから言えるけど、僕はあの時「なんで走らすんだよ〜」と思いながら走りました。けど、今考えると北山コーチは僕らより優勝したい気持ちが強かったんだと思います。その結果、北山コーチを含め、ほかの指導者や応援してくれた保護者などの熱い気持ちをもらい、見事僕らBJは優勝しました。あの時の感動は今でも覚えています。この経験から後輩に言えることは、コーチなどが怒っても、「ムカツクー」など思わず、言われたことを素直に受け入れてください。そうすれば、いつか絶対結果がついてきます。コーチなども、みんなにサッカーがうまくなってほしいから怒ってるんです。最後に、結果も大切ですがサッカーを楽しんでください。



BJに居たころを振り返って
塚口裕太(29期生)


 僕がBJというチームに入ったのは小学校三年生の誕生日でした。サッカーをやろうとしたきっかけは、僕よりも先にBJに入っていた浜村なつき君に誘われて入ろうと思ったからです。けれどそのなつき君は小学校四年生の時にやめてしまい、僕は残念だと思いました。そしてなつき君がいなくなったその先、BJメンバーと一緒にいろんな大会に出たり、毎週水曜日と土曜日にみんなで練習をしたりしてとても楽しかったです。その中で一番の思い出は、フットサルの練習試合でフォワードに出させてもらい、ハットトリックを決めたことです。このことがあってから本当にサッカーは良いなと思いました。ですが僕は今現在左腕のひじを複雑骨折してしまっていてサッカーが出来ない状況なので、これからリハビリをいち早くサッカーが出来るよう一生懸命頑張ろうと思います。


平野誉大(29期生)

 BJ創立30周年おめでとうございます。6年間BJでお世話になり、サッカーを通じていろいろな事を学ばせていただきました。 ぼくは、中学に入ってからもサッカーを続けています。部活のサッカーは、いろいろたいへんなことがありますが、負けずに、がんばっていきたいと思います。これからもブラックジャガーズを応援していきたいです。


近藤颯平(29期生)

 僕は1年生のときにBJに入りました。当時はあまりやる気がなく、遊びに行ってるようなものでした。だけど、学年が上がるごとにやる気がでました。今、BJを思い出すと、あっというまに、すぎたきがします。僕の今の現状は、1年生大会が近くで日々頑張っています。ポジションはディフェンスです。ディフェンスは1年生の中で一番多いです。1年生大会は8人制で、試合に出る選手は2人くらいです。頑張って1年生大会で出たいですあと、もうすぐ総体があります。総体が終われば、今の2年生がいなくなります。今の2年生がいなくなってちゃんとしたチームができるか心配です。



Happy 30th Anniversary!!!!
29期 最初で最後の1人
田中凱庸(29期生)

 僕の最初のサッカーでの記憶、思い出は幼稚園の時2年生の試合に出て、あまりの暑さとぜんそくでテントで倒れてたことです。でも僕が今もこうしてサッカーをつづけているのはBJがあったからです。これからもBJがたくさん活躍していくことを応援しています。

創立30周年に寄せて 30周年記念事業 BJの活動のあらまし


T 草創・組織化初期
(1978〜1982年度)


U 定着期
(1983〜1985年度)

 V 底辺拡大期 
(1986〜1988年度)
[ 組織体制再整備期
(2004年度〜)
30年の歩み(T〜[の各期をクリックするとPDFファイルを表示します)  W 運営体制整備期 
(1989〜1991年度)

Z 組織発展期(その2)
(1998〜2003年度)

Y 発展停滞(発展準備)期
(1996〜1997年度)

 X 組織発展期(その1) 
(1992〜1995年度)
BJを巣立った子供たち BJを支えた人々 BJの目指すもの
        Black Jaguars


       創立30周年記念誌
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